山岳遭難・山岳事故 備忘録

過去の山岳事故・遭難の取りまとめBLOG

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岩木山 道迷い 大館鳳鳴高山岳部

遭難
 5人の山岳部員は、リーダーの石田隆司以下、金沢吉郎、畠山勉、乳井孝司、村井秀芳で、他に5人の遭難を知らせることになる三ッ倉省一郎がいました。6人は大館駅で1月4日午前6時に集まる予定でしたが、乳井が遅れたため、登山口の百沢の岩木山神社前に着いたのは正午でした。3時間遅れの出発で、その日は姥石の営林署の避難小屋に泊まりました。翌5日、午前9時から登りはじめ、昼前に焼止りヒュッテに到着しました。この日まで天気は晴天でした。
 翌6日、三ッ倉を残し、午前8時40分に5人が岩木山頂を目指し出発しました。このとき、小雪が舞い、頂上は黒雲に覆われていました。午前10時に種蒔苗代に到着、単独で登っていた社会人の今努に追いつきました。今は、このあと吹雪で5人を見失い、登頂をあきらめて下山しました。その際、百沢に降りるはずが、風に流され、東に3km離れた葛原に下山していました。
 5人は午後2時を過ぎても、焼止りに戻って来ませんでした。ヒュッテで人の声がしたので、三ッ倉が行ってみると、弘前高校の生徒4人が来ていました。その夜、三ッ倉は一睡もできず、翌7日朝、弘高生4人と三ッ倉は頂上を目指しましたが、三ッ倉の疲労が激しいので、百沢に降りて警察に連絡することにしました。
 午前11時ごろ、食堂を経営する藤田忠志は下山してきた三ッ倉から事情を聞き、弘前署大浦派出所に連絡しました。弘前署は、派出所から連絡を受け、救助隊の編成をはじめましたが、冬山捜索の装備などありませんでした。岩木山は、端麗な容姿から「女性的な山」とされ、遭難とは無縁だと思われていたのです。

山頂のメモ
 弘前署は、岩木山神社近くの消防屯所に遭難対策本部を設置しましたが、二重遭難を恐れて捜索は翌日と決定しました。藤田と東奥日報・弘前支社の記者・花田忠一は、営林署員をリーダーとする捜索隊第1班とともに、焼止りまで登りました。藤田は半纏とゴム長靴という軽装備でした。花田は、遭難した高校生のベースキャンプの写真を撮り、そのまま下山しました。
 弘前大学山岳部の桂修二をリーダーとする4人が百沢から焼止りに登ってきました。彼らは、遭難した高校生がどこまで到達してどこで消息を断ったのかを調べるため、山頂を目指し、藤田がこれに同行しました。彼らは、8日午前0時に出発し、種蒔苗代を目指しましたが、風に流され、主峰直下の耳成岩の下で午前3時にビバークしました。午前6時に一行は再び山頂を目指し、山頂の石室でノートに「1月6日、大館鳳鳴高校山岳部員(11時10分着、天気ふぶき)石田、村井、乳井、畠山、金沢(三ッ倉)」と書かれているメモを見つけました。
 弘前大学一行は、このページを破り、同じ文面をノートに写すと、破ったページを持って下山しました。途中、登ってきた大館山岳会員で中学教師の畠山陽一ら4人に会いました。畠山は、この季節、岩木山では、例年なら北西の風が吹いており、それに押されるように降りれば百沢に下山できるが、今年は山を巻くように風が吹いているので、それに押されて高校生たちは沢に入ってしまったのではないか、と考えていました。彼は、石田と金沢の教師でもあり、2人の体力と登山技術ではおそらく絶望であろう、とも考えていました。
 地元山岳関係者たちは、山頂に人をあげ、食料と燃料の補給を受けながら、捜索したいと思っていました。悪天候のため高校生たちはそう遠くへは行けないはずでした。しかし、対策本部は、そうした意見に耳を貸さず、ただただ百沢方面でのみ、3日間でのべ500人を超える大捜索を行いました。しかし、何の手がかりもつかめませんでした。

足跡を追え
 岩木山をはさんで百沢の反対側、鰺ヶ沢の岩木山岳会の米谷茂夫と神昭二は、応援のため、8日朝、百沢に着きました。しかし、捜索隊が大勢いたので、午後3時に百沢を出発し、焼止りで一泊、9日未明、種蒔苗代を経て、鰺ヶ沢側に下山しました。
 この夜、鰺ヶ沢警察署の次長・成田勝俊は不思議な夢を見ました。岩木山から長平に流れる大鳴沢のてっぺんに3人の男の影が見えました。3人は、「寒くて寒くて…」「私たちはここにいる。早く町の人たちに知らせて欲しい」と言うのです。成田は翌日も同じ夢を見ました。成田が「君たちは3人だろ?他の2人はどこにいるんだ?」と尋ねると、「いや、3でも5になるんだ」と答えました。
 米谷と神は、西法寺森から大鳴沢沿いの長平ルートを左手にそれ、追子森を経て第二松代に下山する予定でした。2人は、西法寺森と追子森の中間で、第二松代から登ってきた捜索隊と合流しました。この捜索隊にいた長平の消防団員13人は、直接長平に下りるため、鍋森山付近の石神神社を通過するとき、奇妙な足跡を見つけました。しかし、暗くなっていたので、捜索を断念し、長平に下山しました。
 消防団員たちは、足跡が気になり、鰺ヶ沢警察署に連絡しました。鰺ヶ沢警察署の三上善丈係長と消防団員ら10人は、翌10日午前9時、足跡の捜索に向かいました。彼らが大鳴沢沿いに足跡を追跡し、長平まで1.5kmの地点に来ると、不意に「おーい」という声を聞きました。遭難した5人の1人村井を発見したのです。村井は病院に運ばれ、治療を受けました。そして、村井の口から遭難の詳細がわかったのです。

生還
 村井たち5人は、岩木山頂に到達したものの、下山ルートを見失い、迷ってしまいました。村井と乳井は頂上に戻ることを主張しましたが、畠山と金沢が下山を主張し、リーダーの石田は下山を選びました。6日午後5時ごろ暗くなってしまい、吹雪の中でビバークしました。彼らは、ツェルトを1枚しか持っておらず、磁石を風に吹き飛ばされてしまい、冬山で焚火をする方法も知りませんでした。
 翌7日朝も吹雪でした。11時ごろ石田がおかしくなり、村井が肩を貸して降りていきました。7日の夜、吹雪を避けるため、岩陰でビバークしました。このとき、石田と金沢はかなり衰弱していました。夜中、乳井は、もう里近くまで来ているはずだから、自分が助けを呼びに行く、と村井に言いました。村井がうとうとしているあいだに、乳井は装備をすべて置いて出発していました。
 8日朝6時、村井が気づくと、石田と金沢は意識を失っていました。両目を開けたまま、ピクリとも動きませんでした。村井と畠山は、2人を並べて寝かせ、スキーのストックに赤い布をつけて目印として立て、下山しました。昼になると、こんどは畠山が動けなくなりました。村井は、自分のヤッケと食料を畠山に渡し、トランジスタ・ラジオのイヤホンを耳につけてやって、乳井を追いました。
 村井は、乳井の足跡を追っていきましたが、暗くなったのでビバークしました。9日朝、村井はまた乳井の足跡を追いました。乳井はまったく休むこともなく歩き続けているようでした。村井は途中神社を見つけましたが、神社に放火して助けを求めることなどまったく考えられなくなっていました。
 10日の午後になって、村井は、ビバークする場所を探しているとき、人の声がしたので、「おーい」と声を出したのでした。

遺体発見
 村井が発見された10日の午後1時ごろ、捜索に加わっていた藤田は、主峰と巌鬼山の鞍部でビバーク跡を見つけました。そこは、7日夜、藤井たちがビバークした耳成岩から200mしか離れていませんでした。
 11日午前7時半、長平から150人の捜索隊が大鳴沢を登っていきました。鰺ヶ沢営林署の白戸新一は、長平から3km離れた標高780m地点で、雪に埋もれた畠山の遺体を見つけました。畠山の遺体から5m離れたところに村井のヤッケが落ちていました。村井は畠山と別れたところから自力で5m移動していたのです。
 青森県庁職員で青森山岳会員の中野轍自郎は、岩木山岳会、青森山岳会など18人で捜索隊を結成し、12日朝5時、長平を出発しました。午前9時半、畠山発見地点から1km登った標高1050m地点で、赤い布のついたストックの先を発見、掘ると石田と金沢の遺体が出てきました。石田は、下級生の金沢をかばうように、抱きかかえた姿で埋まっており、その手にはマッチと小枝が握られていました。石田は、村井と畠山が去った後、最後の力をふりしぼって火をつけようとしたのでしょうか?
 12日に石田と金沢が見つかった後も、乳井は見つかりませんでした。13日は大雨になり、翌14日の正午で捜索は打ち切りと決定しました。この日は乳井の出身地比内町の消防団も捜索に加わりました。11時半、鳴沢川の左岸で足跡が見つかり、打ち切りの2分前、乳井の遺体が発見されました。

遭難者の1人乳井の母・一子
「これくらいの山で遭難して、などとは思いません。私はあの岩木山という山が大好きで、一時は毎朝起きたら岩木山が見えるところに家を建てて暮らしたい一と思ったこともあるほどですよ。息子を奪られた山だとか、迷って死んだ山だなどとは、ちっとも思いません。やっぱり津軽の人たちが毎日"今日はいい天気だな"などと言って見上げている山なんだもの。本当にいい山ですよね」

 ただ1人の生存者・村井は、岩木山での遭難の原因を、夏と冬では山は全く様相を一変させるのを知らなかったことだ、と語りました。

「岩木山は本当に私たちにとってはホームグラウンドだったのに…。考えを甘く持ってはいけません。毎年山で亡くなる人がたくさんいるのに、また次から次へと人々は山にいく。もちろん山の魅力もあるが、誰もが自分だけはそういうことにはならないと思っているからなんですね。でも、何かひとつ歯車が狂うと遭難は起こってしまうものなんですよ」

村井もまた三ッ倉同様、もう遭難当時の夢を見ることもない。けれども毎年一月になって四人の仲間の命日がちかづいてくると、あの若木山での数日間を思いだす。
「目を閉じると彼らは一六、七歳で止まったまま。それから全然動かないのです」
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[ 1964/01/07 18:55 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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