山岳遭難・山岳事故 備忘録

過去の山岳事故・遭難の取りまとめBLOG

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日高山脈縦走 カムイエクウチカウシ山 北大山岳部

 十勝管内中札内村中札内川上流の十の沢で昭和40年3月14日未明、日高山脈縦走中の北大山岳部の登山隊6名が雪崩に巻き込まれ、全員が死亡した。初期捜索は困難をきわめ、雪解けをまって再開始された捜索によって、全員の遺体が発見され、澤田君の胸ポケットの中からは、ポリエチレンの袋に収められ、地図の裏に書かれた遺書が見つかった。奇跡的に即死をまぬがれた澤田君が雪崩の雪の下で記したものだ。絶望の淵で必死に書かれた遺書は強い責任感と家族愛に満ちて読む人の胸を打つ。

 彼等は必ずしも危険な所で雪洞をつくって露営していたわけではない。その後の調査によるとこの雪崩は、走行約3km、デブリの長さ1Km、幅30-100m、量約40万トンの日本国内の雪崩としては最大級に属するものと推定された。
 
 この遭難に関しては、遺稿集『雪の遺書』や、現地の救助隊の吉田勇治氏の『鎮魂歌 ああ、十の沢』(平成11年)などの書物が出版されているが、ここでは、北大山岳部々報第10号の遭難報告をもとにした。

 この悲しい事故の鎮魂歌『ああ十の沢』、 『日高哀歌』、 『お母さんごめんなさい』ができています。


 登山計画
   リーダー        澤田義一(農4)
   アシスタント・リーダー 中川昭三(文3)
   メンバー        橋本甲午(農4)、 田中康子(教養2)、
                松井作頼(教養1)、坂井丈寛(教養1)

   日 時 昭和40年3月11日―3月24日最終下山日(行動9日、停滞5日)
   コース 札内川―カムイエクウチカウシ山―カムイ岳―幌尻岳―トッタベツ川


遺 書    澤田義一(リーダー)

 三月十四日(?)の深夜ニ時頃、(後で時計を見て逆算した)突然ナダレが雪洞をおそい、皆寝ているままにして埋めてしまった。最初、雪洞の斜面がなだれたのかと思ったが、後ですき間を少しずつ広げてみた結果、入り口よりデブリがなだれこんできたものだった。
 皆は最初の一しゅんで死んだようだったが、私は、幸いにして口のまわりに間隔があったのを次第に広げて、ついにナタで横穴をニメートル近く掘って脱出しようとしたが、外はデブリで埋まっているためか、一向に明るくならずついに死を覚悟する。ただ今十四日十三時十分、しかし何とか外に出たいものだが、根気負けしてしまった。一休みしてから考えよう。
 お母さん、お父さんごめんなさい。一足先に行かしてもらうだけです。きっと、何かに生まれ変わってくるはずです。その時お母さんお父さんを見守っているはずです。
 土田のおばさんすいません。心配が本当になってしまいました。でもゆるしてくださいね。田中さん、坂井君、松井君、中川君、橋本君ごめんなさい。とりかえしのつかぬ失敗をしてしまって。
 皆さんのお母さんごめんなさい。ついにやってきたのです。きっと天から皆さんを見守っているつもりです。せめてできることはその位です。早く、安らかに眠りたいものです。どうせ死ぬなら、僕ひとりだけです。
 十四日十三時二十分。尾崎さん別にいいんです。
 内藤さんアマゾンはどうでした。佐藤君、牧野内君、友達として心のふれあう君達だった。佐藤君には五千円借金しています。
 海内さんだって、波多江さんだって小泉君だって死んでいるじゃないか。ちっともさみしくないはずだ。
 杉山さんご指導ありがとうございました。
 ルームの皆さんさようなら。松田君、庵谷君すいませんが、後始末をお願いします。
 広瀬先生すいません。上山さんお先に行きます。鈴木、清水、裏、山下、田中、井上、林頑張れ。
 何がなくなっても命だけあれば沢山だ。死を目の前にしてそう感ずる。親より早く死ぬのは最大の情けない気持ちだ。松井君は一人子、橋本君は男一人、僕も男一人で、親のなげき悲しむ様子が手にとるようにわかる。
 三月十四・十五・十六・十七と寝たり掘ったりする。日付は時計の針でのみ計算する。ナタが手に入った。懐中電灯が二ヶ、スペアの電池が一ヶ、非常食が二人分。掘っても掘っても明るさが出てこないので、がっくりしている。
 生は10%ぐらいだろう。十七日朝八時。
 お母さん本当にごめんなさい。今まで育ててくれたつぐないをなさずに、先に行ってしまうなんて。
 今は比較的落ち着いています。仲間が皆そばで眠っているせいでしょう。後一週間くらいならこのまま寝て待っていられるのだが、二十五日ごろ騒ぎだして、捜索隊がここにつくのは早くて二十九日。そしてここが見つかるかどうかも疑問だ。十三日にここであった山スキー部のパーティが、一緒に来てくれれば分かり易いのだが、あの時あいさつしておけばよかった。向こうのパーティも知らん振りしていってしまった。
     (注:このとき会った山スキー部パーティの正確な情報、捜索協力は捜索活動の決定的役割を果した。)
 佳江、珠代へ。先に死んでしまってごめんよ。お母さん、お父さんはこれからお年寄りになっていくんだから二人仲よくして、お兄ちゃんの分もよく面倒みてあげて下さい。
 昌子姉へ、お母さんお父さんのことよろしく。
 お母さん今死んでしまうなんて残念だ。切角背広も作ったのにもうだめだ。


  お父さんの詠んだ歌

           「 義 一 」   澤田己之助
  就職のきまりしときの喜びは いまもなおわがまなかいにあり   (昭和40年3月)

  妻ときて悲しみあらたなり あたらしき背広の服を子の部屋にみて(昭和40年3月)

  おん身いま日高山なみ深き谷に 焼かるる夜をわれは眠れず  (昭和40年6月)

  北のはて日高の谷の山旅に わらじも足に馴れて下りぬ     (昭和40年8月)

  子の死してすでに十年を過ぎにしを 憶いつつ生く老いらくの身は(昭和50年3月)

                    「北の山脈」17号(昭和50年3月15日)より

◆日高縦走の6人遭遇
 『お母さんお父さんごめんなさい。一足先に行かしてもらうだけです。皆さんのお母さんごめんなさい。掘っても掘っても明るさが出てこない。今は比較的落ち着いています。仲間がそばで寝っているせいでしょう(中略)』。一九六五年(昭和四十年)三月、日高山脈縦走中に大規模な雪崩に遭遇し全滅した北大山岳部パーティーのリーダー・沢田義一さん=当時(24)=は、雪崩の下で奇跡的に四日間生き続け、この「遺書」を残した。
 同月十四日未明、北大農学部四年の沢田さん率いる六人パーティー(四年三人、一年三人)は、日高山系カムイエクウチカウシ山(標高一、九七九メートル)の山頂に近い札内川上流の十の沢で、雪洞を掘り眠っているところを大雪崩に見舞われた。
 下山予定日を過ぎてもメンバーが戻らなかったため、同二十八日から、ほかの部員やOBらがルート上の捜索を開始。ほどなく、十の沢付近が雪崩に埋め尽くされているのを発見する。登山計画書などから、沢田パーティーがその下にいるのは確実だったが、分厚いデブリ(雪崩で積もった雪や氷の塊)を掘り起こすことはできず、二次遭難の危険性を考慮し、捜索は雪解け後に持ち越された。
 五月から再開された二次捜索に加わった北大山岳部OBの井沢憙文さん(55)=清水在住、当時北大二年=は「デブリの厚さを見て言葉を失った。過去に例がないほどの大雪崩で、全員即死だろうと直感した」と振り返る。巨大なデブリはそのころになっても解けず、井沢さんら若手部員が交代で現地に残る長期捜索となったが、六月十三日、「遺書」とともに沢田さんの遺体が見つかった。
◆遺書と遺体を発見
 『何か無くたって命だけあれば沢山だ。死を目の前にしてそう感ずる。親より早く死ぬのは最大の情けない気持だ』。千五百字の遺書には両親やメンバー、遺族への謝罪と、無念の思いがつづられていた。
 日高山脈や札内川上流開発の歴史に詳しい元道開発局職員吉田勇治さん(78)=中札内在住、団体役員=は「国内に唯一残された秘境・日高山脈はその美しさと裏腹に、多くの登山者の命を奪ってきた魔性の山。数え切れない雪崩遭難や滑落事故などの悲しい歴史の中でも、『十の沢遭難』は沢田さんの遺書が残っていただけに、もっとも強い印象を残している」という。
 井沢さんは「(遺書は)死に直面しながらも、リーダーとしての責任を感じ沈着に書かれたあの人らしい文章だった。みんなが涙に暮れたが、だれより沢田さんの両親の姿がいたたまれなかった」と回想する。残る五人の遺体も数日後に見つかり、山の中で火葬された。『いざ行こう 我が友よ 日高の山に 夏の旅に 北の山のカールの中に眠ろうよ』-。山岳部部歌が山間に悲しく響いていたという。

◆悲劇を風化させまい
 その後、日高山脈のふもと中札内村には、山岳センターや札内川上流地域殉難者慰霊碑が建てられた。同センターには沢田さんの遺書のコピーやメンバーの遺品が展示され、慰霊碑の中央部には六人の名が刻まれている。一方で、吉田さんは「十の沢遭難の悲劇を後世に残すことは現世に生きる者の使命」として昨夏、『鎮魂歌 ああ、十の沢』を著し、事故の記録を詳細に書き記した。悲劇を風化させまい-という思いは事故から三十年余りたった今も息づいている。
 ここ数年、日高山系周辺の道路整備などが進み、高齢登山者の入山も増え、死者こそ少ないが、遭難件数は年々増加傾向だ。吉田さんは「日高山脈の特性は何十年たっても変わらない。登山者が同じ悲劇を繰り返さないためには、事故の教訓を語り継ぎ、慢心することなく、大自然の力を謙虚に認識することだ」と感じている。
 (十勝20世紀取材班=小川翼)(00.2.4)

<メモ>
 昭和40年代は登山全盛の時代で、特に日高山系を目指す若者は多かった。中でも北大山岳部はひときわ多く日高に挑み、多数の登頂ルートを切り開いていたため、「日高のエキスパートという自負があった」(井沢憙文さん)という。沢田パーティーの縦走は、真冬の山々で厳しい訓練を重ねた部員らにとっては比較的容易ともいえるルートだったというが、雪崩の危険性が高い春山で、川に沿って登る“沢登り”を行ったことの無謀さを指摘する声もあった。その後10年ほどの間、北大山岳部は相次いで遭難事故などに見舞われ、部員やOBにとっては苦難の時期だったという。
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[ 1965/03/14 00:00 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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