山岳遭難・山岳事故 備忘録

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八甲田雪中行軍遭難事件 救助活動

救助活動
救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立と共に青森連隊独自で行った。

救助拠点は、幸畑に資材集散基地、田茂木野に捜索本部を置き、そこから哨戒所と呼ばれるベースキャンプを構築、前進させる方法が取られた。哨戒所は大滝平から最初の遭難地点の鳴沢まで合計15箇所設営された。

捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、其々が所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。この作業は構築した哨戒所を拠点として、日中を6時間程かけて行い、遺体は哨戒所に一旦収容してから、捜索本部に集積した。1ヵ月も経過すると、捜索隊員によって雪が踏み固められたり、気温の変化で雪がシャーベット状になり、かなり固くなってしまった。そのため、竹棒では刺さらなくなり鉄棒で代用した。

また、捜索活動初期の頃、北海道からアイヌ人一行を招き、彼等と彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。

発見された遺体は、1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬した。余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるからであった。哨戒所にて衣服を剥いだ後、直火にて遺体を解凍し、棺に収容して本部まで運搬した。

水中に没した遺体は引揚げ作業が難航し、そのまま流されてしまうものが多数であった。そのため、幸畑村を流れる駒込川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。

こうして発見された遺体は、最終的に5連隊駐屯所に運ばれ、そこで遺族と面会、確認の後、そこで荼毘に付されるか故郷へ帰っていった。

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[ 1902/01/23 12:00 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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