山岳遭難・山岳事故 備忘録

過去の山岳事故・遭難の取りまとめBLOG

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八甲田雪中行軍遭難事件 背景/概要

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されている。

事件の背景
事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としていたことが挙げられる。日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。

この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森」と「青森~田代~三本木~八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前歩兵第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」が目的だったとされている。

遭難部隊
遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊第2大隊である。部隊の指揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉(かんなりぶんきち)である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口が指揮に関与したとされている。神成文吉大尉は、秋田県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。

神成大尉の命を受けて危急を知らせる途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、遭難の詳細が判明した。5月28日に全遺体が収容された。

最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)、の11人のみであった。

生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外の、そのほとんどが凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な方では、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。その他は四肢切断であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

1907年(明治40年)、銅像が立てられたが、後藤房之助本人は当時の連隊長に「よく見ろ」と言われたが、照れくさくなかなか見ることができなかったという。彼は遭難の話はあまり話したがらず、また、後藤伍長は同じく生き残りの村松伍長と仲が良かった。後述するが岩手と宮城の兵士たちにとっては凄まじい惨劇となった。

後藤伍長は銅像のほか、現在青森県道40号青森田代十和田線の路上に「後藤伍長発見の地」という板が立っている。ただし、発見の地は銅像よりも数キロ青森よりの場所である。銅像の場所は馬立場付近で、第二露営地と第三露営地の間である。

銅像に向かうスキーのコースは銅像コースと言われる。同コースでは、2007年(平成19年)2月14日に、死者2人・重軽傷者8人を出す雪崩事故が発生した。

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[ 1902/01/23 00:00 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

八甲田雪中行軍遭難事件 遭難経緯

第1日(1月23日)
午前6時に青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が案内役を買ってでるが、これを断り地図とコンパスのみで厳寒期の八甲田山踏破を行うことになった。

途中小峠まではさしたる障害もなく進軍できた。しかし、大峠付近にて天候が悪化し、ソリ隊も遅れはじめたことから、大休止を取った。携帯した食料類は凍りついてしまい食事を取らない兵士が大多数を占める事態となった。装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、駐屯地への一時帰営を協議したが下士官などの反対により、行軍を続行することになる。

風雪をやり過ごしながら馬立場(大峠より2km)まで進軍した。ここから積雪量が格段に深くなり、行軍速度が落ち、食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より1時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。

夜6時、鳴沢付近でソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各隊員が分散して持つこととなった。このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流した。

夜8時過ぎに田代(本来の露営予定地は田代新湯である。後世創作された映画では最後の方のシーンに村山伍長が田代に辿りついたため云々とあるが、村松伍長が発見されたのは田代元湯でありここを目的地とする描写は事実と異なる)まであと1.5kmの平沢の森まで進出するが、日没により前後不覚となり田代方面への進路も発見できなくなった。そのため、これ以上の行軍は不可能と判断し雪濠を掘って露営することとなった。

第2日(1月24日)
前日の強行軍が災いし、寒さと疲労を訴える者が続出した。暖を取ろうにも炭火などの燃料が用を成さず、部隊は遭難に近い状態となる。午前2時頃、この事態を重く見た行軍指導部は部隊の帰営を決定する。

部隊は馬立場を目指すが午前3時半ごろに鳴沢付近でゴルジュに迷い込み、崖をよじ登ることになる。ここで崖を登れず落伍する兵がでてしまう。この行軍における最初の犠牲者であるが、猛吹雪で誰も確認ができなかったという。

途中、午前8時半ごろに佐藤特務曹長が田代元湯に至る道を発見したと上層部に進言した。この進言に基づき山口少佐が独断により佐藤特務曹長の言を採用した。佐藤特務曹長に隊の教導を任せた上で、進路を再び田代に変更した。

駒込川の沢に到達するが、その頃の進軍は全員疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めた。駒込川に至ったことで佐藤特務曹長の進言が誤りだったことに気付くが、もと来た道は吹雪により完全に消されており部隊は完全に前後不覚の状態になり遭難となった。

再び断崖を登ることになり、ここでも転落落伍者をだした。駒込川の沢を脱出する際、第4小隊の水野中尉(華族)が従卒と共に卒倒の上凍死し、部隊の士気が下がった。

夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見し、ここを露営地とした。部隊は統制が取れない上、雪濠を掘ろうにもそれらの道具を所持していた隊員は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹曝しの露天に露営する状態となる。吹雪で体感温度が-50℃近く、また前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多くの将兵が昏倒し、凍死していった。

一方、青森では帰営予定日時になっても帰営しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで出迎えに行った。しかし24時まで待ったが消息がなかった。この日は弘前連隊へ転出する松木中尉の送別会を催していたが、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」と話し合っていた。

第3日(1月25日)
午前3時頃、部隊は馬立場方面を目指して出発した。この時点で死者、行方不明者合わせて40名を超えていた。その他の兵士も多くは凍傷にかかっていた。コンパスは凍りついて用を成さず、地図を頼りに、ほぼ勘に頼っての行軍となっていた。

鳴沢の辺りまで一度は辿り着くも、進行が不可能になり引き返す。その後再度進行するも、途中再び道を見失った。しばしば伝えられる話によれば、ここで先頭で教導していた神成大尉が誰ともなく「ここで部隊を解散する。各自勝手に青森へ帰るように。」と命令したとされる。新田次郎の小説やドラマで有名な台詞の元となる、「天は我らを見放したらしい」というような言葉も吐いたといわれる。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの兵士が、この一言により箍が外れ、発狂して服を脱ぎ始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「筏を作って川下りをして帰るぞ」と叫び樹に向かって行きそのまま倒れこむ者が発生し、凍死者が続出した。

ただし、実質的に部隊の統制がとれなくなっていたことはともかく、この時同行していた生存者である伊藤中尉は晩年に至っても「部隊が途中で解散した」と巷で定説のように扱われている話を否定し続けていた。

この彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。昨晩の夕方から興津大尉は凍傷にかかっており軽石三蔵らが手当てしていた。2月12日の発見時には軽石二等卒は興津大尉を覆うように倒れていた。さらに、長谷川特務曹長など後に生存者として発見される兵士を含む兵士十数名が行方不明となる。長谷川特務曹長は滑落し道に迷っており、彼に従った数名は午後2時頃平沢の炭小屋を発見しそこに滞在していた。長谷川特務曹長が持っていたマッチで火を起し暖を取ったが全員疲労が激しく翌26日午前3時頃に火事になる可能性を恐れ炭火を消し、その後は暖を取ることは無かった。本隊が午前5時30分頃に露営地に戻った頃に山口少佐が人事不省となり、倉石大尉は少佐に遺言を求めた。後藤伍長には少佐はこの時死んだものと判断された。

午前7時頃、比較的冷静だった倉石大尉は斥候隊を募り、比較的元気な15名が馬立場方面への斥候へ向かった。これにより部隊は少なからずも平静を取り戻したがその状況も長くは続かず、午前10時頃には木が揺れるのを見た1人の兵士が「救助隊が来た!」と叫ぶと、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。倉石大尉は、その状況になる度に春日林太夫喇叭卒に喇叭(ラッパ)を吹かせて冷静さを取り戻したという。春日喇叭卒は喇叭が凍結していたため、唇がはがれ翌日凍死した。

佐々木霜吉一等卒が帰路を発見した。午前11時30分頃高橋斥候長が戻ってきて帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中との報告をした。本隊は戻ってきた斥候隊に付いて行き、馬立場に到着した。ここで渡辺幸之助軍曹らの残りの斥候隊からの報告を待つが、残りの部隊はついに戻らなかった。また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長は重なり合うようにして凍死した。夜5時頃倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が行方不明となっていた。永井軍医や桜井龍造看護長といった医療班は、兵の看護を無理をして続けていたが、その結果本人達も斃れてしまう結果となった。この頃には完全に部隊はばらばらになっていた。

夜12時頃に、倉石大尉の一隊は山口少佐の一行と合流した。この日は馬立場北方の中の森にて露営することとなった。この日の露営は寒さに堪えかねて、凍死した将兵の背嚢を燃やすなどして何とか寒さを凌ぐものの、それでも大多数の兵士が凍死していった。

青森では天候が前日よりも良かったので今日こそは帰ってくるだろうと、小関中尉以下40名は炊飯具を携行して幸畑で粥を作って待っていた。その一部は田茂木野村の南端でかがり火を作って夜まで待った。しかし22時になっても到着しないことから、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのでは考え、三本木警察に電報を出したが確認がとれず、翌日から救援隊を派遣することを決定した。

第4日(1月26日)
明け方頃に出発した。この時点で生存している将兵は60~70名となっていた。部隊の人数は1/3までに減っていた。前日の露営で山口少佐が再び人事不省となり、少佐は兵卒に担がれる状態で行軍する。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成大尉、倉石大尉と自然に決まっていたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていた。神成大尉らは前方高地を偵察する形で前方を行き、倉石大尉は後方を進んでいた。

後藤伍長は目覚めたとき、昨夜自分と共に寝た者が1人もいなかった。1人で青森に向かう途中、神成大尉、鈴木少尉、及川伍長らと出会う。夕方までに、中の森~賽の河原の間(所在不明)に到着。露営をするが、暖を取る事も叶わず、将校を中心に周りを兵卒が囲む形で立ったまま休む状態で露営をすることとなった。

村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。大峠まで捜索活動を行ったが、この日の気温は-14℃であり、風雪も厳しく、捜索を断念して田茂木野へ引き返した。

第5日(1月27日)
倉石大尉は目の前の道が二手に分かれる場所で神成大尉、今泉見習士官、中野中尉、鈴木少尉らと合流した。談合し、隊は二手に別れて行動する事になった(四日目とも言われるが倉石大尉は五日目と証言しており恐らくこちらの方が正しい)。真夜中(午前3時頃と推定)に出発した。この時点で生存者は30名で倉石大尉と山口少佐を中心とするグループと、神成大尉を中心とするグループに分かれていた。

倉石大尉のグループは駒込川方面を進むが、中野中尉をはじめ数名が倒れた。途中青岩付近で沢にはまってしまい、進むことも戻ることもできなくなった。

神成大尉のグループは、道自体は比較的正確に進んでいたが、倉石大尉らと異なり猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出した。残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行くと言い、出発したがそのまま帰ってこなかった。3人となりしばらく留まるなかで、及川篤三郎が危篤となり手当ての甲斐なく死亡した。神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進むが神成大尉が倒れてしまった。神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤伍長は1人で朦朧とした意識の中で田茂木野へ歩き続けた。

救援隊は捜索活動を再開した。今日こそは何としてでも雪中行軍隊と接触しようと、案内人を何とか説得して、大滝平に進んだ。午前10時頃、三上中尉率いる小隊が大滝平付近で雪中に立つ後藤伍長を発見した。本人はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救援隊のために救われたり」と述べている。発見時の様子を東奥日報は「直立せしまま身動きもせずキョロキョロせしのみ」と報じる。また、「遭難始末」では仮死状態で歩哨の如く直立していたと述べられている。ここで雪中行軍隊が遭難したことが判明した。

伍長が「神成大尉」と微かに語ったため、付近を捜索するとすぐ先に神成大尉が倒れていた。大尉は全身凍っていた。腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れてしまった。その後口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま凍死した。及川篤三郎の遺体も発見された。19時40分、三上少尉が連隊長官舎に駆け込み大滝平で後藤伍長を発見したことと雪中行軍が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可」となったことを知らせた。青森歩兵第五連隊長の津川謙光中佐はこの報告を聞いて青くなった。

その後
1月27日の夜、倉石大尉らの一隊では今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い周りが制止するのも聞かず川に飛び込んだ。倉石大尉は「川を下っていった」と述べているが、他の生存者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。

1月28日には倉石大尉らの一隊では、佐藤特務曹長が下士兵卒を連れ川に飛び込んだが、そのまま凍死した。これに関しても倉石大尉は「連隊に連絡しようとして行ったまま行方不明」と述べている。倉石大尉ら4名は崖穴に入った。山口少佐がいる川岸の場所と、倉石大尉らのいる場所の二つに別れて兵士がいたが、どちらかといえば倉石大尉らのいる所の方が場所的には良かった。倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めたが、山口少佐は「吾は此処に死せん」として拒否した。この頃、山口少佐に水を与える役目になったのは、比較的動けた山本徳次郎であった。

1月29日に救助部隊が神成大尉の遺体を収容し、各哨所も完成する。同様に雪中行軍をしていた弘前隊が青森に到着した。

1月30日には賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道に当たる。「賽の河原」の名前は、以前にもここで凍死した村の人が多くいたために付けられていたといわれる。後藤惣介が倉石大尉らの場所に行く。

1月31日午前9時頃、鳴沢北方の炭焼き小屋にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒の2人が救出されるが三浦伍長は救出後に死亡した。小屋で朝まで生きていたというもう1人の遺体も発見した。3日目に出発したところまでは覚えているが、それ以降は分からず、気づいたら小屋に飛び込んでいたという内容の証言をしている。小屋周辺では16名の遺体を発見した。この際田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と誤電報を送るがすぐさま「生存兵卒2、遺体10」だったと訂正している。

午前9時頃、倉石大尉らが崖をよじ登りだす。15時頃、250メートルほど進んだところで倉石大尉、伊藤中尉ら4人が発見され、生存者計9人が発見された。だが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。この際に救出された山口少佐も病院に収容されたが2月2日に死亡した。山口少佐の死因については、公式発表では心臓麻痺となっている。しかしピストル自殺説(小笠原孤酒及び彼に取材した新田次郎が採っている)もあることや「凍傷の指で銃の操作は不可能」として新たな背景を探る松木明知の研究もあり、更なる検証・進展が望まれる。

鳴沢では他に水野忠宜中尉(紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。

2月1日には賽の河原付近にて数名の、按ノ木森から中ノ森にかけ十数名の遺体を発見した。

2月2日11時頃地震が発生し、その際平沢の炭小屋で屋根が崩れその中にいた長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見される。しかし、佐々木二等卒、小野寺二等卒は救出後死亡した。15時頃には3日目に隊列を離れていた最後の生存者村松伍長が古館要吉一等卒の遺体と共に田代元湯で発見された。村松伍長は四肢切断の上、一時危篤状態となったがかろうじて回復した。




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八甲田雪中行軍遭難事件 原因

原因
原因は諸説あるが、決定的な原因ははっきりしていない。それを踏まえて、現在唱えられている原因を列挙する。

気象条件
雪中行軍が行われたのは、冬季によく見られる典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた時で、日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもある(旭川で1月25日、日本最低記録である-41.0℃を記録した)。青森の気温にしても例年より8~10℃程低かった。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している。この過酷な気象条件が遭難の一大要因と考えられる。

稚拙な装備
雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである(当時の日本陸軍の軍装については日本陸軍の軍服も参照)。倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。当時はまだ日本においてはゴム靴というのはハイカラな靴(いわゆるファッションブーツ)として扱われていたにすぎず、倉石大尉が本行軍で履いていたのは単なる偶然である。

指揮系統の混乱
雪中行軍隊の総指揮者は行軍隊隊長の神成大尉であるが、これに山口少佐と若干名の大尉が行軍隊付きとして同行する形になった。責任者は神成大尉ではあるが、階級と本来の職務の関係からすると山口少佐は上司にあたり、同行してきた大尉達は神成大尉と同格の指揮官になる。これが結果として情報伝達の不備、意思決定の不統一になった。

極端な情報不足
神成大尉が雪中行軍隊の指揮を任されることになったのは、行軍実施の直前である。それまでの担当者は夫人出産の立会いのため、任を解かれる形となる。その為、実際の雪中行軍に対して神成大尉は何も予備知識を持たないまま準備作業に入るが、準備作業としては、予行演習の日帰り行軍を小峠まで小隊編成で行ったのみである。その行軍自体が晴天下で行われた事もあり、冬山登山や雪中行動の基本的リスクの抽出が結果として行われなかったことになる。

認識不足
雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県の農家の出身者であった。いかに寒冷地の出身者と言えども、普段冬山に接する機会などない者が多く、このような者は厳冬期の八甲田における防寒の知識など皆無に等しかった上、雪中行軍をトレッキングと同列に考えている者が多かったといわれる。第5連隊では、出発の前日に壮行会が開かれており、深夜まで宴会が行われていた事も、「過酷な行軍」との認識が希薄だった事をうかがわせる。長谷川特務曹長は「田代といっても僅かに5里ばかりで、湯に入りに行くつもりで、たった手ぬぐい1本を持っただけだった」と語っている。なお、長谷川は軍銃の皮を足に巻き凍傷を防いでいた。

遭難始末によれば、“山登り”という事で履物を普段の皮製の軍靴から地下足袋に換えて参加した兵士も何名かいたことが確認されている(氏名までは不詳)。生存者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れてしまったら換えはなく、そこから凍傷が始まり、体温と体力を奪われ凍死していったという。小原伍長自身も「もしあの時、予備の軍手、靴下の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。

兵卒の生存者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。彼等は冬山での行動にある程度習熟しており、「足に唐辛子を擦り付けて、足温を安定させる」「足に油紙を巻いて水分の浸入を防ぐ」「肌着と衣服の間に新聞紙を仕込んで、体温の安定化、寒気の遮断をする」「食料(握り飯)に油紙を巻いて凍結を防ぐ」等の独自の耐寒装備をしていた。将校の生存確率が高いのも、兵卒より防寒機能が高い装備が一因と言われている。



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八甲田雪中行軍遭難事件 救助活動

救助活動
救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立と共に青森連隊独自で行った。

救助拠点は、幸畑に資材集散基地、田茂木野に捜索本部を置き、そこから哨戒所と呼ばれるベースキャンプを構築、前進させる方法が取られた。哨戒所は大滝平から最初の遭難地点の鳴沢まで合計15箇所設営された。

捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、其々が所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。この作業は構築した哨戒所を拠点として、日中を6時間程かけて行い、遺体は哨戒所に一旦収容してから、捜索本部に集積した。1ヵ月も経過すると、捜索隊員によって雪が踏み固められたり、気温の変化で雪がシャーベット状になり、かなり固くなってしまった。そのため、竹棒では刺さらなくなり鉄棒で代用した。

また、捜索活動初期の頃、北海道からアイヌ人一行を招き、彼等と彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、遺体発見でかなりの成果を挙げた。

発見された遺体は、1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬した。余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるからであった。哨戒所にて衣服を剥いだ後、直火にて遺体を解凍し、棺に収容して本部まで運搬した。

水中に没した遺体は引揚げ作業が難航し、そのまま流されてしまうものが多数であった。そのため、幸畑村を流れる駒込川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。

こうして発見された遺体は、最終的に5連隊駐屯所に運ばれ、そこで遺族と面会、確認の後、そこで荼毘に付されるか故郷へ帰っていった。




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